| 内容の分類:[答え]
こんにちは、初めまして。 私も葉について(つまり“楽”いう概念について)考えたことがあります。 以下はその際に私がまとめた駄文を紹介します。
果たして、生きることに「苦」を感じている現代人はどれくらいいるんでしょう? いや、「もう死にたい」とかそこまでオーバーに行かなくたって、なんとなく「イヤだなぁ〜」とか「辛いなぁ〜」って、日々の生活の中でふと考えたりしません? 仕事がうまくいかなかったり、人間関係がぎくしゃくしたり、自分が属する社会そのものに息苦しさを感じたとき、人は「楽」を求めます。 葉が「楽」を求める切っ掛けは、彼の孤独な幼少時代が関係しているという説があります。 代々霊感を持つ麻倉の家系である彼は、その能力故に学校で望まれた人間関係を築くことが困難だった。 クラスメイト達は(むしろ人間そのものの性質だが)自分達と異なる者を恐れ、偏見的にその本質までをも決めつけてしまう。 さらには学校という場所のシステム上、嫌でも生徒間のコミュニケーションは避けられず、しかしそこで友好関係を得られないことから必然的にジレンマが生ずる。 これはクラスメイトの彼らの所為ではないし、もちろん葉自身の所為でもない。 皮肉にも葉が疎外される原因は誰の所為でもない、仕方のないことです。 葉はそれを理解していたが故に、余計辛かったと思う。 疎外する彼らを憎むことが出来ないのだから(そもそも彼に「憎しみ」という感情が在るのかが私は大いに疑問なのですが) このどうしようもない苦しみ、辛さから解放されたい。 よって「楽」を求める。 おそらくは誰もが共感できるところだと思います。 だって人生のほとんどは「苦」で出来ているようなものです。 だからこそ、一瞬の幸せを「幸せ」と感じられるもんです。 そして人は切羽詰まってる時こそ自分勝手になりがち。 「楽」であること…つまり余裕を持つことによって、人は人に優しくなることも出来るのではないでしょうか? 「楽」になるとは乃ち、不要な蟠り(未練、嫉妬、憎悪、悲しみといった負の感情)から一切解放された自分でいるということ。 マンキンにおいて「感情ではなく、心」と繰り返し「感情」に対して否定的立場にあるのは、「感情」が「楽」を求める上で障害物に他ならないからなのかもしれません。 しかし感情を持つのが人。感情を失えば人で無くなったのと同じです(無感情的になった葉くんが「人でなし」と呼ばれたりという例も) ここで重要なのが「心」というもの。 「心」と「感情」の違い、私もいろいろ考えてみましたが、非常に境界線は引きにくいです;。 おそらくは「感情」は瞬発的なもの、所詮は脳内ホルモンの分泌による化学反応。 そして「心」は、信念や思想や気持ちの持ち様等、人格形成に関与するもっと根本的なものだという分け方が出来るのでは? 人間社会において対人恐怖というものがある。その中で「心」と「感情」の区別に関する具体例を一つ。 Aさんが友達Bさんに、テスト前にも関わらず週末遊びに誘われました。 Aさんは前回のテストが悪かったので、週末は家で勉強していようと考えていました。 にも関わらず、彼女はBさんの誘いに乗りました。 単純でよくある話です。 何故AさんはBさんの誘いを断れなかったのかというと、“友達の誘いを断る”という行為に対して一種の対人恐怖があったから。 あるいはテスト勉強から、遊びという誘惑への現実逃避願望によるものだと考えられる。 何れ恐怖や欲求と言った「感情」が、勉強するという「心」で決めた決意を排除してしまったケースです。 その後、Aさんが今回もまた悪い点を取ってしまったことは言うまでもありません。 彼女は後悔する。 「後悔」という言葉は、「心」で決めた選択を遂行した場合に不似合いな言葉です。 「心」に従わず、「感情」に任せて行動してしまった時に引き起こされるのが「後悔」。 つまり、ここにおいて「心」と「感情」は明らかに区別されるべきものだということが立証出来るわけです!(出来てたらいいんですけどね;; …よくよく考えると、欲求が「心」と「感情」のどちらに分類されるかは難しいですが(汗) でも…私が思うに、「感情」って自然と出ちゃうものじゃないですか? 自然と出るもんを無理して押さえ込むと、それこそ苦しいですよね? だとしたら本当に「楽」になるって、なんだ?(結局謎;
以上(長ったらしくてすみません) しゅーてぃんぐすたぁ☆さんの考えにはとても共感できるし、私のこの文の中にも共通する点が多々あるとは思います(省略してもよかったのですが、面倒なので全文載せてしまいました; 私も錯乱しているところあるのでこの考えで断定は出来ません。 結局マンキンから何をどのように読みとるかは読者次第。 たまにはそれぞれで読みとったことを、このように意見交換してみることも大切かもしれませんね。
|