| 内容の分類:[答え]
2004/12/28(Tue) 23:43:29 編集(投稿者) 2004/12/28(Tue) 23:29:54 編集(投稿者)
う〜ん。すいません。私の力の及ぶ限り簡単にしたつもりだったのですが、やはり難しいようですね。長さもぎりぎりまで短くしたつもりです。何十回となく読み返して削りました。
また、文中にも書いてある通り、“心と物の違い”については武井先生でさえ分かっていなかったから『マンキン』はちぐはぐになっているのですから、皆さんは無理に分からなくてもいいと思います。大人になったら分かるというようなものじゃないですから。 ただ、『マンキン』の印象が違ってきたのは、武井先生がわざと変えたためではない、ということだけ分かっていただきたいと思って書いたんです。要するに、武井先生は、ちょっと御自分の手に負えないようなところまで、テーマを広げ過ぎちゃっただけなんですよ、と。
それでは、ここから先は無理に分りたいかたのみ、おつきあいください。
タイトルにもある通り、おおざっぱに言えば、心=人間で物=自然です。更に言えば心=夢であり、物=現実です。 今、皆さんの目の前には何がありますか?パソコンですよね?それはまあ物なんですが、私の書いた“物の側”の“物”というのは、そういう“人間が作った物”を指しているのではなく、“人間が作ったのではない物”を指しているのです。 そういう区別の仕方は自分では分かっていても、はっきりと他人に伝えられる言葉を持っていなかったし、他人に伝えるためには哲学の“唯心論と唯物論”というような元々ある考え方を使ったほうが楽なので、そこから言葉を持ってきたのですが、実は物とは関係ないんです、すいません。 ですから、“心の側にいる人間”とは、そういう人間の作った物、いえ、もっと厳密に言えば人間の空想の産物を形にした物を大事にしている人で、“物の側にいる人間”というのは、人間の作ったのではない物、もっと厳密に言うと人間の作った物でも機能的である物を大事にしている人を言います。そして“心の側にいる人間”には形になっていない空想の産物を大事にしている人も含まれます。まあ、それが“心”な訳です。
お分かりいただけましたか?
また、乱暴な区分で言えば“心の側にいる人間”=文学、芸術系の人間で、“物の側にいる人間”=理数、体育会系の人間ですね。 いや、違うよ、とおっしゃる方もいるかもしれません。そうですよね。そう、人をすぱっとは分けられませんよね。だから難しいんですよ、このテーマは。
でも、ファウスト戦の前までは良かったんですよ。心のプラス面対物のマイナス面でやってたんですから。ファウストが心のマイナス面を持ち出したから、ストーリーがややこしくなっちゃったんです。あそこで葉の過去も書き換えられちゃいましたし。「幼稚園の友達に自慢できない」んじゃなかったのか?葉! で、まあ、それはいいとして、その時ファウストを肯定するような表現があったら、心のプラス面もマイナス面も肯定する漫画、として成立していたのですが、あそこであれだけファウストを自分の考えではないような台詞まで持ち出して否定していたのに、今更肯定されても、遅い、というか、ちぐはぐというか。 やはり、このファウスト戦の初心(?)に帰って心のマイナス面は否定されたほうが、あの今の憑き物に憑かれたような葉も我に返るような気がしてなりません。また憑かれたままでいたいなら、ファウストを否定した自分は嘘だったのだ、という描写をしていただかないと納得が出来ません。て言うか、本当はどっちなんですか?
|